歴史
お茶の歴史 織田信長とお茶 利休と秀吉 家康とお茶 千家再興 松永久秀と九十九髪 平蜘蛛の茶釜 利休の自刃
お茶の歴史
紀元前
2800年頃 |
中国の伝説に登場する神農帝(しんのうてい)は人間が食べられる植物を調べるために、 野草を試食し多くの毒に当たるが、お茶の葉をかんで毒を消したと伝えられる。
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760年頃
唐時代 |
世界最古の茶書「茶経」(ちゃきょう)を陸羽(りくう)が著わしました。
お茶の製造法、茶道具、飲み方、産地などが書かれている。
中国唐代の陸羽(730?~803年)は湖北省生まれの
文筆家で初めてお茶にかかわる知識を集大成をした
『茶経』を表したことで知られ、「茶聖」「茶神」「茶玉」など
と呼ばれています。
お茶のバイブルとされる『茶経』は、茶の歴史、産地、栽培、採取、
製茶法、製造道具から飲用、茶器具、作法までの技術と知識を
幅広くまとめた3巻、10章からなり、その内容は今日まで影響を
与え続けています。 |
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805年
平安時代 |
最澄(さいちょう)は、中国から茶の種と 団茶(だんちゃ)を持ち帰る。
団茶とは、茶の葉を圧搾してレンガのように固めたもので、削って用いる。
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806年
平安時代 |
空海(くうかい)は、中国より茶の種と 石碾(いしうす)を持ち帰る。
お茶は貴重で、寺や貴族の間で飲まれていた。
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1191年
平安末期 |
栄西禅師(えいさいぜんじ)は、お茶を粉にして飲む「抹茶法」を携えて中国より帰国した。わが国に臨済宗 禅宗を開きました。 静岡県の茶摘唄に 「お茶の初めは三粒の種よ 栄西禅師の唐土産」とあります。 。
「お茶王国しずおかの誕生」本より
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1207年
鎌倉時代 |
高山寺の明恵上人は、栄西から贈られた茶の実を京都栂尾に栽培しました。 さらに山城の宇治に 移植し今日の宇治茶のもとを開きました。 それ以来、各地に茶園が広まったのです。
禅の修行もつんだ明恵上人は、とくに座禅修行の際のやすらぎと健康のために、 抹茶の効用を説いたといわれています。 禅とお茶は切っても切れないものとなったのです。
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1211年 |
栄西禅師は、お茶が健康に良いという事を記した「「喫茶養生記」を 著しました
茶の飲み方、栽培法を伝え、茶を奨励し、普及に 努めた。禅寺では、茶を飲用としたほか、仏前へのてい茶や慈善の施茶として使われた。
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1241年 |
静岡茶の始祖聖一国師(しょういちこくし)
茶の種を宋より持ち帰り、現在の静岡市葵区足久保に裁植した。静岡茶の始祖と言われている。
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鎌倉時代の後半から、南北朝、室町時代の中頃にかけて、中国から入ってきた闘茶 (茶の産地を当てる)の茶寄合が、流行しました。
一般社会でも 、「一服一銭」と呼び声をたてる立売茶があらわれ、やがて茶店も生まれました。
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室町時代も末期となって、将軍足利義政は、銀閣寺の東求堂に同仁斎をつくって、お茶をたのしみました。
東山文化。茶寄合も、唐物の氾濫で道具茶となってきました。
能阿弥(のうあみ)は書院茶の作法を完成させました。
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村田珠光(むらたじゅこう)は能阿弥に書院茶を学びました。茶の湯を道具茶からとき放って、町衆の間に広め精神性を求めました。 ここに、「道」としての茶の歴史が始まるのです。 珠光は、京都紫野の大徳寺・真珠庵で、一休禅師について参禅し、禅の精神を加味し 、精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。
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武野紹鴎(たけのじょうおう)が唐物の茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れ、 「わび茶」を 完成させ、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に 昇華していきます。
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織田信長とお茶
茶器コレクター 茶会の取り仕切り 政治的権威としての茶の利用
★1568年の松永久秀の「つくもがみ」を手に入れたあたりから、名物狩りが始まる。
今井宗久は「松島の壺」、武野紹鴎遺愛の「茄子茶入」を献上
東山御物はじめ「初花肩衝花入」 「富士茄子茶入」などの天下の名物を入手
莫大な財産を使い、唐物茶道具を入手していく。
★「御茶湯御政道」を定めて、茶の湯を政治的権威として使っていった。
家臣としても、信長から茶会を開くことを認められるのは、大変な名誉だった。
茶頭として 今井宗久 津田宗久 田中宗易(のちの利休)が任命された。
★戦いで活躍した部下の褒美として、土地や金銭に変わり、茶器を贈る。
また、家臣たちもステータスとなる茶器を欲しがるようになっていく。
滝川一益は、信長から恩賞として上野国と信濃国の一部、さらには関東管領の 職まで与えられましたが、希望していた茶器(珠光小茄子)ではなく、落胆したと 伝えられています。
★1582年6月2日本能寺の変
信長は1日本能寺で盛大な茶会を催しています。茶会には付喪茄子をはじめとする、 信長自慢の茶器コレクションが、安土城から大量に運び込まれました。 が、この変により消え散ってしまいました。
利休は、堺で生まれ、早くからお茶をたしなんでいます。
利休居士は五十八歳の時、織田信長に召され、信長の死後、秀吉のもとで茶道を もって仕えました。茶道役といっても、実質的には秀吉のブレーンの役割を果たしていたのです。「佗ぴ茶」を完成させました。
天正十三年1585年、秀吉が催した宮中の茶会のとき、正親町天皇からとくに利休 宗易居士の勅号を賜わりました。これによって利休居士は、天下一大宗匠としての地位を確立しました。(このころが秀吉と利休の蜜月時代)
利休居士が寄進した大徳寺の金毛閣に、利休居士の木像が置かれた事で秀吉の怒りをかい、ついにに天正十九年1591年、利休居士は死を命ぜられました。
(原因はまだ他にもあるようです) 「利休はなぜ自刃したか」はこちらへ
利休亡き後、利休の7哲である古田織部が茶頭として秀吉に重宝されます。
秀吉の死後(1598年)、古田織部は、関が原の合戦では東軍に味方し、二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役を務めている。この期間が古田織部の絶頂期といえるだろうか。
方広寺鐘銘事件が起きた際、その銘文を選定した責任により謹慎中の南禅寺の僧清韓を、茶会に招き徳川家康の怒りをかう。大阪の陣においても徳川方に身を置いていたが、豊臣方への内通の嫌疑を受け、また織部の家臣による京都放火計画が発覚するとその責を取り、大阪夏の陣終結後の元和元年(1615)6月に72歳で自刃して果てた。
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家康とお茶
小堀遠州(古田織部の弟子)が徳川将軍家の茶道指南役となる。王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。
家康は、晩年は駿府(静岡)に隠居して茶湯を楽しみます。静岡市の山間部井川を支配していた海野氏に命じて抹茶のもとになる碾茶(てんちゃ)を作らせました。
安倍奥の大日峠というところにお茶壷屋敷を設け、名器の茶壷に安倍茶を詰めて夏を越し、秋に井川から久能山東照宮までお茶を運ぶ「お茶壷道中」が、行われました。
現在も「お茶壺道中」が再現されています
利休と織部の最後は切腹
社会に安定が求められると、利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は、危険視された為だと思います。つまりは権力者の価値観を否定していく存在になりかねない。ということだと思います。
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千家再興
利休亡き後、少庵(後妻宗恩の連れ子)は、蒲生氏郷のもとに身をよせていた。利休切腹から3年後の(1594)には,豊臣秀吉の勘気もとけ、少庵は京に戻ることを許されます。この秀吉の赦免の意を伝える徳川家康、蒲生氏郷の連署状は「少庵召出状」として表千家に残っています。 少庵は、大徳寺での修行を終えた元伯宗旦とともに、千家の再興を果したのです。
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松永弾正と茶道具(九十九髪茄子)
九十九髪茄子
三菱美術館で購入した絵葉書より写真をあげました
松永久秀という武将がいたが、足利義輝を殺害したり、東大寺大仏殿を焼いたりの梟雄であるが、なかなかの茶人である。
1568年その彼が所有していた「つくもがみなす」という茶入れを織田信長に献上し、身の保全を図った。このエピソードから茶道具が国一つに値すると言われるようになった。
2010年春、三菱1号館が開館したとき、この「つくもがみ」が出品されていると新聞でみて、飛んでみにいった。感慨深いものがあった。じっとみいってしまった。こんな小さな茶入れがたどった歴史の重さを感じた。
以前に本を読んだときは、この茶入れが現存するとは知らず、新聞で現存することを知ったときは、昔の恋人にあったようなどきどき感があり、見に行かずにいれなかった。
九十九髪茄子 茶入れの歴史
九十九髪茄子は、足利義満の唐物茶入で、代々足利将軍家に伝わって愛用された
8代将軍の足利義政の時、寵臣の山名政豊に与えられた
15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光(九十九貫目)の手に渡る
その後持ち主は転々と変わり松永久秀の手になる。久秀は一千貫もの大金を投じて購入したという。
足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し、配下となった。1568年
1615年大坂夏の陣では再び戦火にさらされ、徳川家康の命令によって焼け跡から探し出されたが、かなり破損していたため藤重藤厳という漆塗りの名工に修理のため預けられ、そのまま東照大権現拝領の家宝として藤重家が伝えた。(NHKのヒストリアに登場した九十九髪茄子 X線写真)(2012.6)
明治になって三菱岩崎弥之助の所有となった。この時、弥之助は兄から借金をしてまで買ったという。
ブログ2010年三菱美術館1号館リニューアルで
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松永弾正と茶道具(平蜘蛛の茶釜)
松永久秀所有の名器・平蜘蛛の茶釜のこと。
1577年信長にそむいた久秀は、信長がかねてより喉から手が出るほどにほしがっていた名器・平蜘蛛の茶釜を差し出せば助命する といわれるが、小説によれば釜に爆薬をいれ、抱えて自爆した。この名器・平蜘蛛の茶釜だけは信長ごとき茶のわからぬものに渡せるものかという敵対心が大いにあったようだ。だから私は、小説を読んで以来現存しないし、どんなものかも想像すらできなかった。
なのに、一方で現存するという。
一つは、浜名湖舘山寺美術館。信貴山城跡を掘り起こした際、この茶釜が出土した
もうひとつは、国立東京博物館にある。『探訪日本の城』では平蜘蛛茶釜は懇意にしていた柳生宗厳(柳生新陰流の継承者)にすでに渡っていたという説を紹介している
真実は天のみぞ知る。
ともかく近々浜名湖舘山寺美術館に行ってこようと思っている 5月1日まで展示されているそうだ。
平蜘蛛の茶釜
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浜名湖舘山寺美術館にある
平蜘蛛の茶釜
信貴山城跡を掘り起こした際、この茶釜が出土し、信長が使ったと? |
浜名湖舘山寺美術館 |
浜名湖舘山寺美術館の説明 クリックすると大きくなる |
2012.6.21のBSTBSの歴史の番組で 上記の茶釜が出てきました。 |
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なぜ利休は自刃した?
1582 |
利休 待庵(二畳の究極の侘びの茶室) |
1585年
(63歳) |
秀吉が関白就任
禁裏茶会(関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた)利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。 |
1586 |
大友宗麟書状「「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」という豊臣秀長の言葉があります。
大納言豊臣秀長と利休は信頼関係にあり、秀長の後ろ盾が大きい。
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1587 |
北野大茶会を開催
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利休と秀吉は茶の湯の最盛期「北野大茶湯」が蜜月のピークだった。やがて徐々に両者の関係が悪化していく。秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまう。これは信長でさえやらなかったことだ。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じる。
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1590
68歳 |
秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑される(しかも耳と鼻を削がれて!)。利休、衝撃を受ける
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1591/1/22 |
大納言豊臣秀長 病死 (利休の理解者を失う)(その後石田三成が台頭) |
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☆1591年!1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
☆9日後の1月22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。
2月13日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。
☆利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。
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1591/2/28
70歳 |
利休 自刃 |
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私見
秀吉にとって、あくまでもかしづいている利休なら関白の威厳が保たれるが、美意識の違いをはっきり表に出してきた利休は煮て食えない存在になっていっただろう。
秀長が亡くなり、利休を理解し、秀吉との間を取り持つものがいなくなった。
利休は、利休の美意識を曲げてまで秀吉に卑屈にはできなかった。
だからこそ、400余年続いたのでしょう。 |
八木勝行氏のはさみ切り絵作品
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